早川みどり大研究!・2~『オペレーション・ブラックタイツ(黒タイツ作戦)』

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第3話『新キャプテン誕生』のラスト30秒。茶髪をなびかせ、神技的なバレーボールの壁打ち「一人バレー」を続ける全身黒タイツの少女が出現する。この週ではまだ顔も名前も謎の彼女こそ、後にこずえの生涯の友となる早川みどりであった。


しかし、この後の展開で「一人バレー」自体には全く意味が無かった事が判明(笑)。

 

それゆえ、今ではこの異様な黒タイツ姿と相まって「一人バレー」のシーンは格好のツッコミ所にされてしまっている。
しかし一方で、このパフォーマンスにかけた早川の意気込みをあれこれ想像すると、登場時の彼女の来歴や思想などを知る事ができて面白いのだ。

 

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早川は富士見市出身だが小学校5年の時に京都に引越し、彼の地にいた間ずっとバレーをしていたと言っている。彼女の京都での生活ぶりはバレー以外は全く謎だが、その性格や言動から大体察しがつく。

 

早川がスポーツを始めた理由は「英雄」になり女王として君臨するためだったらしい。
それがバレーであったのは、なんといってもバレーは当時の女子スポーツの王様であり、どの学校でも最大の部員数と規模を誇る部活であったからだろう。

 

しかし大いなる野望を持って入部したものの、万事派手好みの上に我儘な女王様的性格では封建的な体育会系下積みの苦労は無理だったはずである。

 

「だれも怖がって相手にならなかった」
と、試合出場の経験が無かった事について早川は言い訳しているが、結局のところ部内で疎まれ孤立し、試合出場を待たずして自分からバレー部を飛び出してしまったのだろう。

 

原作によると早川は『一人バレー』を習得するのに3年かかったと言っている。
実際は学年からいってもっと短い期間になるだろうが、つまりその間実戦では全く役に立たなかったこの技を、ひたすら一人で練習していたという事になる。
恐らく先輩の3年生が引退する時期をまって再起を果たそうと黙々と練習していたのであろうが、そんな時古巣の富士見市への転校は願ってもない事だっただろう。

 

一度ケチの付いた京都の学校より、まっさらな状態からスタートできる転校先のバレー部デビューのほうが遥かに魅力的である。
2年の途中からならレギュラーは確実で、さらに念願のキャプテンの座も射止められるかも知れないという計算もあった。


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そんな調子で着々とデビューの準備を進めていた早川であったが、鮎原こずえの存在を知って計画は大きく変わる。
不良チーム対バレー部の名勝負の評判は学校のみならず町中にも知れ渡っており、キャプテンとなったこずえの噂はすぐに早川の耳にも届いた。
すでにバレー部には実力も人気も兼ね備えた強力なヒロインが存在していたのだ。
早川は猛烈な嫉妬に燃える。

 

これにより単に『華々しくバレー部デビューを飾る』という当初の計画から、こずえの持っている人気、人望、キャプテンの座、全て奪い取って我が物にするという恐るべき作戦に変更されたのである。

 

名づけて 『黒タイツ作戦』。

 

第一段階
登場編。最初の勝負ポイント。
一目見ただけで一生忘れられないような演出をもって、おのれの強烈なカリスマイメージを植えつける。

 

第二段階
調略工作。金品や父親の地位を使って人心を買い、味方を集め第三段階への地ならしを固める。

 

第三段階
謀略工作。ネガティブな噂でこずえに対する不信感をうえつけ、こずえと部員を分断する。
第二段階で信用を得ているため、多少強引なデマでも通用してしまう。

 

第四段階
いよいよ作戦の最大のヤマ場である。
部員たちの不信感を買い孤立させたこずえに、決定的なスキャンダルを持って止めを刺す。これで彼女の立場を完全に失墜させ、息の根を止める。
その後多数決による正当な手続きによってキャプテンの座を奪取する。
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ここで終わらないのがさらに巧妙かつ悪質な点である。
総仕上げとして孤立無援のこずえに救いの手をさしのべる。
追放せず、赦しを与える事で周囲に自分の器の大きさをアピールでき、しかもこずえを手なずけアゴでこき使う事もできるようになるのだ。

 

これはおそるべき周到さで準備された陰謀であった。



中でも第一段階が早川が最も胸躍らせ、熱中した作戦の一大重要ポイントであったろう。
それは『女王様の降臨』にふさわしい、後に伝説となるような華々しくインパクトを持った登場でなければならない。
そのための劇的な登場のタイミング、パフォーマンスを何度も練り直し考え、衣装や演出も凝りに凝った。

 

そこでいよいよ黒タイツの登場である。
おそらく色々な映画雑誌や芸能雑誌をひっくり返して研究したに違いない。
姿見に映った黒ずくめの精悍なスタイルは「女王陛下のダイナマイト」のミレーユ・ダルクか「サンダーボール作戦」のルチアナ・パルッツイか。
勉強そっちのけで鏡の前で何度もポーズを取り、一人悦に入る早川の様子が目に浮かぶようである。
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戦後、ビートニクや進歩派インテリのファッションとして流行した全身黒づくめの『実存主義ルック』は、68年のパリ5月革命で再び注目を集めていた。早川が意識していたかどうかは定かでないが、日本では淺川マキなどが有名。

 

だがちょっと待ってほしい。
この最も印象に残さなければならない華やかで記念すべきファースト・コンタクトを飾る衣装が、ただの真っ黒なタイツだったという事に諸君は疑問を抱かなかっただろうか?
たしかに体の線や動きを見せるにはシンプルな形と色はベストである。
しかし、万事派手好きで日常的にパンタロンスーツやカルダン風のワンピースを着こなすオシャレな彼女にしては、この黒タイツは少々渋すぎやしないか。
なぜ彼女は敢えてこんな衣装を選んだのだろうか?

 

注意して見ると「一人バレー」の演技中、早川はずっとバレリーナパドブレのようなステップで歩いている。
こんな歩き方はバレーボールに全く関係ないし、必要のない技術である。
しかもそれはまるで見せつけるかのようなわざとらしさであった。
・・・実はここに、黒タイツの謎を解き明かすヒントが隠されていたのだ。
早川がタイツ姿を選んだのは、まさにこの踊る方の『バレエ』を意識していたのではなかろうか??

 

今ではちょっと想像できないかも知れないが、この当時『バレエ』や『バレリーナ』に対する少女たちの憧れやロマンは現在とは比較にならないほど大きかったのである。
発端は1950年公開の映画『赤い靴』のヒットであったと言われるが、高度経済成長期に入った昭和30年代には全国にバレエ教室が乱立し、かなり高額なレッスン料だったにもかかわらず入学待ちが溢れるほど入門希望者が殺到したという。
空前のバレエブームで少女誌の誌面はバレリーナだらけとなり、女の子達は高橋真琴牧美也子のバレエマンガに熱中したものだ。昭和40年代中盤に入るとやや勢いは衰えるが、それでも当時の『マーガレット』の読者相談には

 

「バレエ教室に通っていると嘘をついてクラスの人気者になったが、なりゆきで発表会に出場する事となってしまった。もはやのっぴきならぬ状況・・・助けてください!」(1970年8月9日号)

 

というような内容がまだ見られる。
当時の少女たちにとってバレエは憧れのお稽古事であり、最高のステータスだったのである。

 

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金持ちミーハー娘の早川なら当然それを嗜んでいた事だろう。
バレエのレッスンで使用した黒タイツは彼女にとって使い慣れたものでもあったと同時に、それを衣装とする事で少女達の羨望の的であった『バレリーナ』をイメージさせ、華やかなステータスを誇示する意図もあったのだと思われる。




こうして満を持して実行された『オペレーション・ブラックタイツ(黒タイツ作戦)』。

 

第一段階は予想以上の大成功であった。
アホな部員たちは早川の颯爽とした姿にコロリと魅了され、こずえに恩のあるはずの不良グループも分断する事に成功する。

 

想定外だったのは、桂城と柏木の二人だけは簡単に丸め込まれてしまった他の部員達と違い、こずえの側について早川に反発した事だ。
柏木は早川と旧知の仲でもあり、彼女の警戒すべき性格を忘れていなかった。そして一目で早川を胡散臭いと見抜いた桂城、この二人の反応は早川の計算にはなかった。
ターゲット以外の人間は利用されるべき愚鈍なコマとしか見ず、初めからナメてかかっていた所にいかにも彼女の自己チューなお姫様的性格が見て取れる。
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だが多少のイレギュラーがあったものの、とりあえず事は順調に運んだ。
早川の巧みな工作でこずえは
『人気者になっていい気になっていたが、今は早川さんを妬んで拗ねている』
というキャラとして全員に浸透していた。無用な衝突を避け、一歩退いてしまったこずえの態度がそれをさらに助長させてしまった。


そしていよいよ正念場の第4段階が決行された。
こずえを失脚させる最後の仕上げとして、備品損壊の濡れ衣を被せるという最大のヤマ場である。

 

早川は事前に部室に忍び込んでネットやボールをズタズタに引き裂いた。
しかしいくら作戦の為の演出であるとは言え、あそこまで徹底して破壊し尽くすという事は相当の憎しみがこもっていたとしか思えない。
こずえの前ではあくまで冷静、無関心を装ってきたストレスを一気に爆発させたのだろう。
暗闇の中、ひとり嫉妬に狂ってナイフを振り回す早川の姿は、ゾッとするような恐ろしいものだったに違いない。

 

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この時、こずえの呼び出しに使った手紙が陰謀の証拠になりかねなかった。
危なっかしいと感じるかもしれないが、実際のところ早川が書いたという事さえ分からなければ全く問題なかったのである。
『証人』とすべく連れて来た中沢ら3人は早川派の最右翼で早川がこずえを犯人だと言えばこずえの弁解など聞くはずもなかった。
追い詰められ、切羽詰ったこずえがヤケクソになって訳の分からない事を喚いている。三人の目にはそうとしか映らなかったはずだ。
そして早川の放ったビンタでこずえが沈黙してしまった事で、状況的にこずえのクロが確定してしまったのである。

 

こうして『黒タイツ作戦』最大のヤマ場は大成功のうちに終わった・・・。

 

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この後の展開はご存知の通り。
仕上げとしてこずえら3人を呼び戻す事も女優並みの演技を使って成功し、ほぼ早川の目論み通りに終わったが、化けの皮が剥げるのも早かった。
『女王デビュー』に熱中したあまり、その後を何も考えていなかったのだ。
実際の試合で活躍してこそ真の英雄となり女王として君臨できるのだと言う、一番肝心な点を忘れている。
キャプテンになった早川はひたすら目立ちたいがための個人プレーの練習に精を出し、結果チームを惨敗に導いてしまった。
このあたりが周到に見えて幼稚、早川らしい可愛い所でもあるのだが。




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しかし先入観というのはこわい。
この時の早川は全身タイツとばかり思っていたが実はそうではなかった。
よく見ると上に襟付きのシャツを重ね着していたのだ。
さすがの早川も、全身タイツで校内をウロウロする度胸はなかったのだろう。

富士見軍団最後の戦い・4 インターバル~こずえの誤算

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しまった!

 
山本さんが立ち直ってしまった?!
せっかくあと一歩まで追い込んだのに、これじゃ元の木阿弥じゃない!

 

 第2セットで流れは変わった。それは決定的なものだった。
天佑としか呼べない幸運なハプニングが起こり、完全に運を掴んだはずだった。
決定的に変わった流れが再び戻る事など、こずえにとって経験した事のない事態である。
 
手を取り合い無言で見つめあう山本と白河。
二人の目は涙で潤んではいたが、澄み切った瞳には興奮や熱狂とは無縁の輝きが宿っていた。
もはや両者の完全復活は疑いようも無かった。
 
・・・白川さんが復帰すれば、また振り出しに逆戻りだわ。
ひねり回転レシーブがあっても、有効な打撃力がない富士見のジリ貧は目に見えている。
このままでは勝てない。なんとか手を打たなければ、確実に私達は負けてしまう!

こんなことってある?
 
なぜ? 
 
 なぜだ??
 
 こしゃくな奴らめ! 
 
運命の力、天の配剤によって変わった流れが、初めて覆された。
白川と山本、あの二人にそんな能力も資格もあるはずがない。

能力も資格も・・・
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こずえは山本たちを甘く見ていたようだ。 
 
もちろん大ボールスパイクにはかつてない脅威を覚え、最大級の警戒をしていた。
また、焦りと恐怖から幻覚の発作が悪化するほど精神的に追い込まれもした。
それでもこずえにとって白河と山本の二人は、強敵といえどどこか格下の人間という意識があったのだ。
 
一体どこからそんな思い込みが出てきたのだろうか?
これまでこずえが戦ってきた中で本当に強い、真のライバルと認めた者はいずれも能力に優れているばかりでなく、美しく、人格的にも尊敬できるカリスマばかりだった。
垣之内、八木沢香、シェレーニナ。皆一流の選手でありカリスマであり人格者だった。
逆に、どんなに実力があっても三原由美子や飛垣遼子のような根性が不潔で捻くれた者、川地絹子のようなゲテモノの異端者、これらはこずえの中では格下の扱いだった。
 
そしてもうひとつ言うなら、こずえは大の美人好きである。
こずえの関心や興味の持ち具合は、相手の外見によってかなり違う。
もっと言うと顔の美醜で差別しているのだ。
その趣味はライバルの格付け認定にも影響していた。

だがそれは単なる好みの問題ではなく、ちゃんとしたこずえなりの理由があった。
容姿の美しさは生まれもって与えられたもの、運命そのもの。
本物の一流は実力と根性、人格も一流である上に、運や天も味方につけるはずである。
それは努力や根性では埋められない絶対的なものだ。
全く同じ実力なら、運を味方につけたもの、すなわち美しい者が最後に勝つ。
それが過酷な実戦の中で人間離れした強力すぎるライバル達と渡り合い、確信に至ったこずえの秘かな持論であった。
 
そしてそれは大体当たっていたのである。
 
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 こずえが心から認めるライバル達に比べれば、二人にはカリスマも美しさもない。
美しくないどころか、この二人の見るに耐えない醜い姿をこずえは何度も目撃している。
雑魚とは言わないまでも、所詮二流の相手であった。
だからどんなに絶望的に追い込まれても、心の片隅では、いつか彼女達の化けの皮が剥げると密かにタカをくくっていた。
チャンスは必ず巡ってくるはずだと期待を残していたのだ。
そして猪野熊の登場という予想外のハプニング。
ボロを出した二人は自滅に近いような有様で敗れ去った。
これは偶然ではない。
この降って湧いた幸運を、こずえは当然のことと受け止めた。
幸運を味方につける格の差が出たのだ。
所詮自分と彼女達とでは格が違う。
山本も白河もよく苦しめてくれたが、ここまで。こうなることは最初から決まっていたのだ。
彼女たちの息の根は、完全に止まったはずだった・・・。
 
それがこの前代未聞の復活である。
一体この試合で何が起こっているのか?


天佑?神助?運命の子?
ようやくこずえは気付いた。
そんなものはない。
元々そんなものなど無かったのだ。
自分は、無自覚のうちにまるで天が自分に味方しているかのような、根拠のない傲慢な錯覚に陥っていた。
あたかも選ばれた特別な存在であるかのように。
自分は選ばれた特別な人間でも何でもない。
自分と彼女達との間に壁など無かったのだ。

古今、スポーツに限らず剣豪、武道家棋士、雀士に至るまで、ギリギリの戦いを続ける勝負師達の中にはその道を極める途上で、運や神、形而上の力などオカルトまがいの奇怪な理論に傾倒してしまう事例が多々見られる。
こずえもまさにそんな「魔境」に踏み外そうとしていたのだ。
 
運、たしかにそれは勝負の重要な要素のひとつではある。
だがそんなものは現実の勝利にどれほど貢献しているのだろうか。
「勝負は時の運」と言うが、それは持てる力を全て出し切ってからの話だ。
どんなアクシデントにも原因がある。おこるべくして起こる理由がある。
そしてどんな偶然の幸運に見えても、それは自ら作り出したチャンスなのだ。
ラッキーな相手のミスも、努力と鍛錬の差が出るだけであって、それは現実の力の問題だ。
実力より偶然の運に重きを置いて賭けに頼ようになったら、もうお仕舞いだ。
生まれつき持っている運命とか、理屈で説明できない不思議な力によって護られている、などという迷信を信じる事自体が、勝負者として恥ずべき自惚れである。
自分もいつしかそれに嵌っていたのだ。

目の前の勝負を決めるのは現実の力しかない。

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・・・今から挽回できるだろうか?
こずえは、これまでの戦いで最も苦しかった、2年前の世界ジュニア選手権でのソ連との決勝戦を思い浮かべていた。
お互い持てる全ての力を使い果たし、ギリギリの気力と精神力で競り合った文字通りの死闘。
転げ回り、這い回り、互いに目をそむけんばかりのムキ出しの執念で、クソミソの区別も無く咬みあった。
あの時は紙一重の差で敗れはしたが、もう一度チャンスがあれば勝てたかもしれなかった。
だが試合が終わった直後は、バレー馬鹿の自分でさえ、もう2度とバレーなどしたくないと思うくらいの苦しさだった。
次のセットは、それ以上の苦戦を強いられるのは間違いない。
しかし、準補欠の石川を含め、今のメンバー達が果たしてそれに耐えられるだろうか?

さらに今回は状況が厳しい。
竹市と石松が退場した富士見には、もう後がない。
「ひねり回転レシーブ」のできない補欠を、みすみす大怪我をさせるためだけに本郷がコートに入れるはずがない。そのまま試合放棄となるだろう。
もはや、富士見に勝算が残されていないのは明らかである。
今度こそ待ったなしの絶体絶命が突きつけられてしまったのだ。

 しかし側らでは、そんなこずえの胸中などまるで気づかないお調子者の猪股と中沢が、追い討ちをかけるかのように愚劣極まる軽口を叩いていた。
 
中沢: 「大ボールスパイクなんて、もう、へ~っちゃらよね!ぜ~んぜん怖くないもんね。」
デコ: 「そうそう!第3セットもこの調子で、か~るくいただいちゃいましょうネ。」
 

ウ、ウルトラ馬鹿!

鉄板の死亡フラグを自ら立てるような行為。
だが彼女たちは無意識にやっているのだ。
今、富士見チームは嬉々として自ら破滅の道へと突き進んでいる。
 
全身を、鋭い悪寒が走った。
 
と同時に、これまで経験したことのない異様な脱力感、倦怠感、無力感がこずえを襲った。
  
・・・これはもう・・駄目かもしれんね・・・
 
 
 
 
(つづく)
 
 
 

こずえのおしゃれ図鑑・4 ~70年代大衆ファッション編

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「アタック№1」を愛してやまない諸君なら、70sファッションにも並々ならぬ感心と深い愛着を持っておられるはずだ。
そしてモブシーンにも手を抜いていない「アタック」はファッションチェックの楽しみにも十分応えてくれる。
今回はそんなアタック的70年代大衆ファッションに注目してみよう。
 
 
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1971年、インターハイ静岡大会のバレーボール決勝戦会場にて。
ミニスカート、パンタロンスーツ、ワイドベルトとなかなかオシャレさんの一団です。
ミニ一色だった女子のスカートも70年代に入るとミディやマキシ、さらにはパンタロンジーンズ、ホットパンツと多彩なスタイルが登場してきます。
男子も負けていません。ここにもド派手なカラーシャツ+ファンシー色の背広の「ピーコックスタイル」紳士たちの姿が見られます。
ただ実際に着こなせてる人はなかなかいませんでした。
 
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スーツ姿にカウボーイのような帽子を被っているこの青年、大丈夫なのか?
アメリカ中西部ならよく見かけるスタイル。しかし日本でこんな格好してる人はちょっと・・・
70年代初頭、なぜか西部劇の『テンガロン・ハット』が大流行。
理由は全くもってよくわからない。なにしろ観光地では子供からおじいさんまでかぶってたくらいだから。
オン・オフのスタイルがまだ不器用だった時代の、レジャー・ファッションを主張する記号の一種だったのかもしれない。
団体旅行などで、おそろいのカラフルなテンガロンハットを着用するというパターンも多かったため、万博会場などお上りさん達のテンガロンハットだらけであった。
 
 
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インターハイ会場の常連、ダルメシアン柄の少女。
やたら目立ってた印象があるが、実際は席が奥でけっこう小さい。
しかしトックリ率高し。60~70年代は右を向いても左を向いてもトックリ、トックリに席巻されていた。
一流ホテルやレストランでもノーネクタイ入場の例外として認めざるオエなかったほどだ。
 
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この一角だけ妙に個性的な一団がいます。
なんかこの画だけ妙に素人臭いというか、少女マンガチックというか、人物のあからさまな適当さに対して洋服の柄や小物のディティールが変に凝っているのが面白い。
こういうバランスを無視して審美的に細部にこだわるセンスはいかにも女性っぽいが、描いたのも女性スタッフだったんだろうか?
よく見ると女の子のジャケットの合わせが全部左前になってるので男性の絵か?とも思うが、パイプをくわえた男子学生の服の合わせが今度は右前になってるので画自体が裏トレスの疑いもある。
 
 
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竜二君、頭じゃま。やや?後にいらっしゃる方々は、もしや!? 
 
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大木さん、池崎さん、それに美人の長谷さんじゃありませんか!?
隣は梶岡先生? な~んだ、来てるならそう言ってくれたらよかったのに!
大木と池崎の私服は15話に登場するが、長谷の私服シーンはアニメでは唯一だ。
 
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所変わってこちらニューヨーク。
さすが人種のるつぼと呼ばれる世界のスーパーシティだけあって人々の顔も服装も多彩だ。
『ヌチェートケニア!』を叫んで立ち上がったこのカフタンの青年、彼もカシアス・クレイのように白人の名前を捨てたアフリカ系アメリカ人だったのだろうか。公民権運動、ブラックパワー華やかりし頃のアメリカを彷彿とさせ興味深い。
スーツ姿の黒人は白人社会で成功したエリートという事だろう。
そんな彼も、ケニヤチームの奮戦に涙を流しヌチェートケニアを叫ぶ。
ところでニューヨーク編と言えば第35話の新井のセリフ、

『今ホテルの外をヒッピーが歩いてるのや。本場のヒッピーやで!』

が面白い。
わざわざ呼びに来るくらいだから「ヒッピー」が一人でウロウロしていたわけではなく、ラブアンドピースを叫ぶ長髪ジーパン集団の大行進だったに違いない。
またちょうどこの頃、ブロードウェイではミュージカル『ヘアー』も大ヒットロングラン公演中であった。

 
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出ました!『カメラを持った怪しい男』!
その行動は神出鬼没、記者章を偽造して報道席に潜り込むなど素人ばなれしていた。
さらに真っ赤なMGB(?)を乗り回し、オープンしたばかりの京王プラザに乗り付けるなどかなり派手。
正体は東南の雇った私立探偵だと思われるが、素顔はなかなかのイケメンであった。
実は飛垣の愛人だったりして。
この東南学園のスパイ『怪しい男』のスナフキン帽子に長髪、ビーズのネックレスというヒッピーファッションは、当時の良識派の人々が抱いた若者風俗に対する得体の知れぬ怪しさ、胡散臭さを表現しているのだ。
 
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フーテン発見!
 
フリーセックス大賛成。
我々は風俗の先端を行くフーテン族。アナーキーな芸術家でもある・・?
在校生や父兄に混じって、ちゃっかりカメラ目線を送る軽薄で物見高い若者。そのスタイルはヒゲにサングラス、ネックレスに膝丈のマキシ・ベストとヒッピーファッションがニクイほど決まってる。
連れの男は長髪にアーミー・グリーンのジャケット、ピンクのベルボトムと、これまたグーだ。(第79話)
 
みんな大好きヒッピーファッション。
そのサイケでアングラなスタイルは企業や権威による既成ファッションへの反逆であり、自由と若さを主張していた。
長髪は高度に制度化・均一化された現代社会に対する抵抗であり、カフタン(中東風のガウン)やビーズや革のアクセサリー、組み紐のヘアバンドなどはエスニックやマージナル(周縁)文化への共感を示し、西欧近代文明のグローバル化支配に対しての異議申し立てを表現している。
そしてフリーセックスは国家の最小単位である家族制度の解体を、マリファナLSDは超越的体験による霊感の獲得と魂の開放をそれぞれ目的としていたのである
 
しかしそんな思想も文化も日本に入ってきた時点ですでに甚だしい勘違いと劣化を伴っていた。
そして彼らうわべだけヒッピーファッションをまねた若者達はマリファナやLSDの代わりにシンナーを吸い、自堕落な日々を送るだけの「フーテン族」となったのである。
また芸術や思想方面のアングラ族も同じようなヒッピーファッションをしている者が多かったため、世間から一緒くたに「フーテン」と呼ばれるようになってしまう。
こずえたちが血と汗にまみれコートを転げまわっていた同じ頃、グリーンハウスと呼ばれた新宿駅東口駅前の植え込みではこのようなスタイルの若者達がアンパン(シンナー)片手に日がな一日寝転び、アングラ喫茶ではフリーセックスの相手を求め芸術論や政治談議にかこつけたナンパに励んでいたのである。
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これがフーテン族だ!!
 
 
 
 
 
 
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ヒッピー・サイケファッションと言えばこの人、山本寛斎。そのアバンギャルド精神は現在も衰るどころかますます旺盛。かっこよすぎるよね。左端が本人。一人おいて加藤和彦
 
 
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フーテン、アングラぶっとばせ!見よこのハツラツとした若さと清潔感、これぞ明るく正しい日本の青少年!
 
一方で当然ながら真面目な普通の青少年も存在したわけで、実際その当時でもフーテンやヒッピーを批判的に見る若者はかなり多かった。
彼らの普段着はここに見られるような襟付きのシャツやタートルネックのニットなど。あるいは家でも学生服だったりする。
右の少年のグレーとベージュのボールドな柄も懐かしい。この手の色柄で細身のカーディガンを一枚羽織れば、ムードは一気に60年代だ。
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ところで60sやGS好きの人なら全身ポリニットのコーディネイトは基本だよね。
高度成長期の日本を象徴するファッションのひとつが化繊とニットのコラボだ。
特にトリコット地のカットソーなどは60年代以降爆発的に普及する。
当初はニットマシンの生産性の高さが戦後の切迫した繊維需要と合致して世界的に大増産されたものだったが、カラフルで実用性に富んだ化繊の登場でニットウェアは実用とファッション性、何より経済性を兼ね備えた大衆既成服の決定版となった。
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一方、~69年辺りではまだジーパンは少数派だった。
原作漫画でもジーパンの男子は全く登場しない。
すでにミニスカが定番となっていた女子に比べ、当時の少年達のファッションがとてもダサく見えるのはそのためだろう。
本格的なジーパンブームは70年代に入ってから。ベーシックなストレートよりまずベルボトムタイプが先に広まった。
ブーム以前にもアメリカ映画やロカビリーの影響から『Gパン』愛好者はいたが、まだマニアックな不良アイテムにすぎなかった。それがヒッピーやウッドストック学生運動などの影響で反体制ファッションとして認知されると一気にブレイク。以降、学生、若者の普段着として定着するようになったのである。
それ以前は相当にオシャレに関心のある男子でない限り、カジュアルを気取ってみてもせいぜい中途半端なアイビー風お坊ちゃんスタイルになってしまうのが関の山だった。
若者にとってジーンズというアイテムがいかに偉大であったのかがよくわかる。
 
 
 
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その後の70sファッションはどうなったか。
ヤングパワー全開のイケイケ時代が一段落すると、若者も次第にコンサバ指向になる。

そんな中で、アングラや4畳半フォークのスタイルにうんざりした女子学生の間で広まったのが、ニュートラと言う似非お嬢様ファッションだ。
かっこよく言えばスノッブだが、要は下品丸出しの成金一家を手本にしたオバサンファッションである。
ニュートラはデコデコとしたブランドをひけらかし、サテンやシルクタッチのポリエステルを好む。
それは科学文明を拒否し、大地に根付いたオーガニックな自然回帰を志向するヒッピーや、ブルジョアの偽善を暴き権威や資本主義の悪を糾弾する学生運動の時代の、チープでナスティーなライフスタイルに対するあからさまな嫌悪を示していた。
そしてそれはキンキラの欲望丸出しで大量生産大量消費の資本主義に寄り添い、エスタブリッシュメントに憧れ迎合して何が悪いという開き直りであり、若さこそが正義であり美しいと成熟を拒否してきたそれまでの価値観(そもそもミニスカートがその象徴)と真っ向から反するものであった。
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次に登場した『ハマトラ』は横浜あたりの名門女子大生をイメージしたファッション。トレーナーやポロシャツ等、カジュアル色が強くなってギラギラした下品さは薄められたが、オバサン臭いのは変わらなかったね。
 
その一方で、アーリーアメリカンなど、はっきり言って「イモ」のダサい少女趣味スタイルも流行った。
少女趣味と言っても、『大草原の小さな家』や『赤毛のアン』のようなもっさりした田舎趣味である点が、現在のロココやゴスのロリータファッションとはちと違う。またカントリーと言ってもペザントやフォークロアなどのモードとも違った。
それは成熟を拒否するという点では60年代のヤングファッションと同じだったが、かつての世代闘争的なものではなく、ただ幼稚で白痴的なメルヘン趣味が前面に出たものにすぎなかった。
結局女の子はデザイナーたちが目指してきたセンシティブでアートなモードより、ヒラヒラフワフワのかわいい服のが好きだったのだ。
この流れは70年代後半のメルヘンや絵本、サンリオブームに合流し現代にも繋がる『カワイイ』カルチャー全般へと発展する。
男子学生のファッションも、下駄履き+ベルボトムから『UCLA』やアメフト柄のTシャツにカラージーンズという、同じ西海岸でもヒッピーとは真逆の、明るく健康的な(実態は空前の規模で麻薬が蔓延していたが)エリート大学生のスポーツカジュアルに移って行った。
 
こうしてことごとく60年代末から70年代にかけてのファッションは否定され、ベルボトムやアングラファッションは『恥ずかしい過去』として封印され葬り去られたのである。
また同時に『70年代』的な物と言えばもうダサさと恥ずかしさの極みであり、『アタックNo.1』も『巨人の星』とともに徹底的に笑いものにされ、コケにされたものだ。
 それが再び脚光を浴びるのは90年代後半。
かつてそれを着、封印した当事者達にとって、長髪やベルボトムが「ネオ・ヒッピー」として復活するなぞ思っても見ない事だったはずだ。

・・・などと人事のように言ってみたりする。
 
 
 
 
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ええ、わたしもこんなかっこうしてましたよ。 うわっはっはっは。

誘惑者・野沢由紀子

目的? 

 

私はね、誘惑するのが趣味なの。
あなた達のような仲良しを誘惑して引き裂く事だけじゃないわ。

 

ひたむきに努力してる人。
歯をくいしばって耐えている人。
命がけで戦う人。

 

そんな人たちを誘惑して、駄目にしちゃうのが好きなの。

 

面白いの。楽しいのよ・・・

 

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野沢さんきらーい。

 

じっさい、濃い「アタックNo.1」ファンの中には野沢アンチな人は結構多いんじゃないのか?
いかにも大人や先生受けしそうな「いけ好かない優等生」であるというだけでなく、あらためてよく見直すとこの女、実はなかなか油断のならぬ奴だったという事を思い知らされる。

 

努がこずえとの間に隙間風が吹いていると見るや、その間にぐいぐい割り込んでくる。
そのやり方も、いかにもさりげなく自然な立ち回りで肩から割り込み背中で押し出す強引さだ。
こずえと努が気まずいムードでいる時、まるで狙いすましていたかのようなタイミングで
「一之瀬さぁ~ん」って
わざとらしく清々しく叫んで駆け寄ってきたのが彼女の初登場シーンである。
助け舟を得た努はそのまま彼女と朗らかに語り合いながら去っていくのだが。
こずえの心中を掻き乱した野沢に対するドス黒い感情は察するに余りあるだろう。

 

またクラブ会議で三田村にすごまれた時などは
「そんな大声出さなくても・・」
と珍しくひるんだ様子を見せたが、これは隣の努を意識して怖がったふりをしただけだ。
こうすれば努も本能的に守ろうと身をよせてくるだろうし、それをこずえの目の前で見せつけようという寸法だったんだろう。多分・・・

 

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不自然な姿勢でさりげなく努の体に胸を突き出す野沢。てめえ~(25話)
偶然を装って体を接触させるオプションは様々あるが、これは結構大胆だ。
しかも努は試合に熱中、無防備になってるのでまたとないチャンス。
不意に身を起こせば肘か背中がボインにタッチする事となる。なんちゅうふざけた女だ。

 

昔ドキドキしながら読んだおませなラブ指南書にもこう書いてありましたよ。

 

『男のコは手を握るのはもちろん、女の子の体のどの部分に触れてもドキドキするもの。わざとぶつかったりして、彼の心(ハート)を奪っちゃおう!』

 

とか。ひどいね。
だがまさにこれは実戦テクニックの基本にして奥義。
このチャンスと見るや核兵器級の実弾も躊躇なく使いかねぬ大胆さと、繊細な状況判断ができる野沢という女、ただ者ではなかった。
野沢自身、実は自分がどう見られてるか多方面で分析して意識してるはず。
「自分が可愛い」とか「憧れてる男子が多数いる」とか、分かってるくせにそれを億尾にも出さないしたたかさ。
女の子に果てしなき夢と憧れを抱く純情一途な男子諸君よ、この手の女が一番恐ろしいのですよじっさいの話!

 

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それはさておき。

 

もともと新聞部の二人は気が合っていたようだが、バレー部が全国制覇を果たした後からそれが目立つようになる。
頻繁に行動を供にし、仲良さげに話す二人。努に初めて野沢を紹介された時から、こずえも嫌な胸騒ぎを感じていた。
それに周りがチヤホヤしてくれる中、なぜか努だけが自分に冷たいのも気になっていた。

 

こうしてなんとなく二人の間がギクシャクしていたその時であった。
突如として彼らが作る学園新聞にバレー部専用体育館建設反対、並びに、人気に乗じ女王きどりで専横を欲しい儘にするこずえとバレー部を激しく糾弾する記事が掲載される。
こずえにしてみれば全く寝耳に水、理解を越えた驚愕の言いがかりであった。

 

こずえらを「おごれる英雄」と切り捨て、本来ならすんなり通るはずだった専用体育館建設にも異議を唱えて反対を表明するなど、難癖をつけてるとしか思えない努の態度にこずえの不信と苛立ちは頂点に達する。

 

たしかに、今見るとこの学園新聞の主張はちょっと無理矢理な感じがする。
「真のスポーツとは何か」という問題が、どうして一方的なバレー部批判と専用体育館建設反対に結びつくのか?
これではこずえもそう受け止めたように、バレー部の人気をやっかみわざと波風を立てて意地悪をしただけのように見えてしまう。

 

しかしこの主張、じつに当時の『空気』をよく表しているのだ。

 

まずは『異議あり』である。
マージナル(周縁・特殊)的なものへの理解と共感、ユニバーサル(中心・普遍)に対する批判と攻撃、が当時のジャーナリズムの真骨頂であった。
バレー部専用体育館建設反対の主張は、少数派として敢えて問題提起し、体制のシステムに異議申し立てするという70年代初頭の若者らしい熱き魂のあらわれでもあったのだ。
たかが学園新聞と侮ってはならない。努と野沢のジャーナリストとして真実を追究する姿勢、中学生ながら自由と正義のために戦うという信念は半端なものではなかったのである。
特にバレー部の陰で犠牲となった弱小卓球部の廃部は、彼らの使命感と闘志を多いに燃え立たせたはずだ。
賞賛と熱狂の陰で押しつぶされ消えてゆく弱者たち。
耳を傾けるべきは彼らの声であり、そこにこそ真実がある。
東京オリンピック大阪万博に反対した知識人達のように、彼らも世間の大多数の流れとは逆の視点と立場から
 『異議あり!』
を発したのだった。

 

そんな時代だったから、この新聞部の反バレー部キャンペーンも多くの共鳴者を得たようだ。
それまでバレー部万歳、富士見中学万歳、のお祭りムード一色だった学園内の空気も変化し、クラブ会議では建設反対派と賛成派が拮抗する事となる。

 

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さて、件の新聞をひっつかみ「努を出せ!」と新聞部に怒鳴り込んだこずえ。
しかし努は不在。
代わりに応対した野沢は、興奮するこずえに落ち着き払った態度でこう答えた。

 

「記事を書いたのは一之瀬さんだけじゃないわ。私も、書きました。」

 

こずえは目を剥いた。
・・・『私も』 だと?
つまりあの記事は二人で書いたってこと?努君と一緒に、二人で!?

 

見れば、野沢はこずえの襲撃を明らかに予想しており、待ち構えていた様子だった。
努が席を外していたのも偶然ではあるまい。

 

「やっぱりそんな事だろうと思ったわ!」

 

・・・予想はしていたが、これで謎は解けた。
優勝直後からのそっけない努の態度、そして現在のこの訳の分からない言いがかりの数々は、全て野沢の入れ知恵だったに違いない。
私がバレーに打ち込んでる隙に努君に近づき、まんまとそそのかしたんだ。
こいつは私と努君の仲を引き裂こうとしている。
そして今、不敵にも挑戦状を叩きつけてきたのだ!

 

上等よ!

 

こずえは拳を机に叩きつけると、猛然とこの誘惑者・野沢由紀子の挑戦を受けて立った。

 

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しかし興奮してまくし立てるこずえに対し、野沢は理路整然、一分の隙もなく淡々と言い返してくる。

 

「大人には大人の思惑があるわ。あなたは優勝にのぼせ上がってるからそれに気付かないのよ。」

 

じっさい箱もの工事に利権は付き物。
一見善人面だが、二言目には「名誉・名声」を口にする俗物の校長や、体育館建設の音頭を取った蝶ネクタイの市会議員とやらが、往年の名和宏や安部徹ふう悪代官顔だった事からも、これには相当胡散臭い話がからんでいた事が伺えた。
このような「大人の汚い思惑」に振り回されたくないという、少年少女特有の潔癖な正義感が、努と野沢をして体育館建設反対を言わせた根拠のひとつとなっていたはずだ。

 

野沢に言い負かされたこずえはしどろもどろになってしまう。
こずえには彼らの主張が全く理解できなかった。
しかし、その理解できない問題で野沢と努が、現在親密な同盟関係にあることだけは解った。
この二人は単純なGF、BFの関係ではなく、高い理念と思想で結ばれた同志でもあったのだ。

 

く、悔しい~!

 

そんなこずえに対し、野沢は勝ち誇ったかのように「全ては明日のクラブ会議で決まる。」
とダメを押す。
根回しもバッチリ。
討論でも今のように賛成派を完全に打ち負かす自身ありとの余裕の発言であった。

 

ついにヒステリーを起こしたこずえは、涙目になって「鮎原こずえ最大の暴言」として記憶されるあのセリフを吐いてしまう。

 

「ふん、あなたたちは秀才よ。富士見学園映え抜きの優等生だわ。でも、あなた達には新聞は作れてもスポーツの楽しさはわからないわ。なによ! 頭でっかちのカタワ!!」

 

言い終わるや、こずえは積んであった新聞の束を掴んで野沢に投げつけた。モーレツ!
だが野沢はこの暴言や暴力にも全くひるまない。
それどころか、ますます軽蔑しきった冷ややかな目でこずえを見つめ返すのだった・・・
完敗である。
こずえはベソをかきながら部屋を飛び出した。

 

『秀才で映え抜きの優等生』はこずえも同じ。
だが校内テストでトップの成績を取る頭脳を持ちながら、ことバレー以外の見識にかけては絶望的に不毛であったバレー馬鹿の彼女こそが、逆に『偏ったカタワ』だったと言えるのではないか。

 

「頭でっかちのカタワばかりだわ!」

 

このブチ切れたセリフには、自分には及びもつかない「高尚な」関係で結ばれている二人への、こずえの嫉妬がストレートに現れていたのである。

 

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さらにこずえが危機感を抱いたのは、野沢がいかにも保守的な大人や真面目タイプの少年に好かれそうな美少女だった事だ。
こずえママも野沢の第一印象を
「賢そうな、可愛いい子」
と好感を持って語っている。
アニメ版の野沢は色白で黒髪ロングヘアーに黒目の大きなぱっちりお目目。
彼女は派手でバタ臭い少女マンガ顔のこずえとは違う、日本人形のような清楚な可愛らしさ、そして知的で落ち着いた文学少女の雰囲気を持っていた。

 

実はこずえには時々無理して本や詩集を読んでイメチェンを計ろうとするなど、秘かに文学少女に憧れていた節がある。
結局この方面の探求は毎回すぐに挫折していたようだが、お転婆なこずえに野沢のような可憐でおしとやかな文化系少女にコンプレックスがあるのは伺えた。
この妬みもあって、野沢・努によるバレー部バッシングが、こずえの中で体育会系VS文化系という対立構図を生み出し、サッカー部も巻き込んだ全面抗争となる。

 

「そっちが文科系エリートの論理と連帯を見せつけるなら、こっちは体育会系エリートのそれをみせてやる!」

 

とばかり、当て付けるようにこずえは三田村と急接近。
その結果努は三田村にボコボコされ、こずえも努に張り倒されるという暴行を受ける。
難儀なことである。これも野沢の存在がなければここまで事態がこじれる事はなかったはずだ。
全くとんだおじゃま虫であった。

 

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「こずえ&三田村」。期間限定だったが、このカップルもなかなか絵になってた。 まあ、野沢が当て馬になってくれたおかげで結果的にこずえと努の関係もより強く深まったわけだが・・・

宿命の黒き狼!八木沢三姉妹~1・静かなる次女・静

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3姉妹、3兄弟ものの物語は数多いが、主役はしっかり者の上か自由奔放な末っ子になることがほとんどだ。大体において真ん中というのは、大人しく控えめで目立たない存在になりがちである。個性や自己主張の弱い真ん中は引き立て役、脇役専門で影が薄い。

 

まずどんな家庭でも第一子は特別だ。その誕生は周囲から最大限の祝福を受け、親はもてる以上の愛情まで注ごうとする。
そしてこの世のあらゆるものは我が子のためにあり、その将来に無限の夢と途方もない期待をかけるだろう。それはしばしば無関係の他人を苦笑させるが、初めて人の親となる身ならば誰もが経験する自然な感情だ。

 

しかし2番目以降の誕生は親にとってもはや人生最大のイベントとして有頂天の大騒ぎをする事ではなくなり、注がれる愛情や期待はより現実的なものに修正されるだろう。
八木沢三姉妹のような年子の真ん中は、長女の誕生の時ように両親の過剰な愛を一身に受けることもなく、またすぐに妹が生まれ、親はその世話にかかりきりとなるため、その愛情を独占できる期間も短くなってしまう。

 

ゆえに三姉妹(三兄弟)の上と2番目の関係というのは特殊である。
特に八木沢三姉妹のような年子の場合、幼い末っ子の世話にかかりきりとなる親に代わり、長女が『ちびママ』になりきって次女を管理指導しようとする傾向が出てくる。その結果、上と2番目は非常に結びつきが強く、その間には絶対的な上下関係が自然と育まれる事となる。
長女と次女は常に行動を共にしている事が多く、姉の影響を強く受ける次女は趣味趣向もそれに従う。習い事も長女のあとにくっついていくので、姉妹の関係以外にあらゆる場面で先輩・後輩のような主従関係が出来てしまう。
長女の次女に対する影響力というのはかくも絶大なものだ。
さらに外見でも、次女の洋服は当然のように長女のお下がりを与えられるが、2度着古したお下がりを三女が着ることはまず無い。
よって長女と三女の靴や洋服は常に新品、次女のそれはいつも長女のお古、という事になりがちであった。
こうして望まずとも次女は外見も中身もまるで長女の縮小劣化コピーのようになり、存在感自体も希薄になってしまうのだ。

 

一方で三番目は親との関係が上の姉たちよりも密接である場合が多く、一人っ子のように見えるのが特徴だ。
3番目は姉たちの影響を受けずにマイペースである。親も末っ子は放任してしつけや教育もゆるいケースが多い。
次女に対しては『ちびママ』になりきっていた長女も年齢が離れた幼い三女には感心が薄く対応も甘い。結果、のびのびと育った末っ子は自己主張が強く、個性的な才能やキャラクターを得やすくなる。
次女は三女に対し長女が自分にしたような強い影響力を発揮したり、厳しい主従関係を作る事はできない。親の愛情を独占した三女は直接母親の影響下にあり、親代わりの支配者など必要としないからだ。

姉妹の上下関係を長女から叩き込まれた次女と、妹のくせに対等の口を聞く生意気な三女の間ではケンカが絶えないが、大抵の場合『お姉さんだから』という理由で次女が我慢を強いられる事になるだろう。
2番目は、いつも上からは姉に押さえつけられ下にはお姉さんらしく振舞っていなければならないため、常に抑制が求められ、自由に自己主張ができない立場となる。

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八木沢三姉妹の次女、静も当初は目立たず三姉妹の中では一番地味な存在だった。
禁欲的なベリーショートの髪型も、そんな彼女の性格や役割をよくあらわしている。

香や桂が関西人らしくズケズケと物を言い、けっこうおしゃべりだったのに対し、静は寡黙でクール。
姉と妹が相手を挑発したり軽口を叩いている時も、一歩下がり黙って聞いている事が多かった。
姉に従い、妹のフォローをする次女はあくまでも控えめ。
出しゃばらず、淡々と役目を果たすことが本分と心得え振舞っているように見えた。

静の声は 松島みのり増山江威子松島みのり桂玲子と、入れ替わりが多かった。
しかしそれでもさほど違和感がなかったのは、松島みのり増山江威子の時は意識的に声のトーンを低く抑えていたこともあるが、静のセリフ自体が極端に少なかったからだろう。
増山江威子の担当は第61話だけだが、注意して聞かないと気付かないぐらいだ。
声質が全然違う桂玲子になってからは甲高い声でよく喋るようになったが、それまでは本当に無口である。
桂玲子は『サザエさん』のイクラや『一休さん』のさよちゃん等、黄色い子供声やキンキンしたロボット声の印象が強く、そのハイトーンボイスが少々鬱陶しく感じる時も無きにしもあらずだった。
が、桂の再起不能直後に見せたダークでやさぐれた静の熱演はすばらしく、次女・静の姉や妹に対する隠された思い、語られなかった彼女の複雑な内面や深い葛藤にまで思いを巡らせる事ができた。

 
母親の死後、三姉妹がより絆を強くもってバレーに打ち込んだのは当然だ。
その間、香が卒業し、自身がキャプテンとして寺堂院を背負って立つプレッシャー、コーチ就任した香との間で板ばさみに合いながら、黙々と責務を果たそうと彼女なりに必死で努力してきたはずだ。
しかし桂を潰された事で、こずえに対する復讐を巡って香と激しく衝突する。
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姉でありコーチである香は絶対で、どんな命令にも従ってきた静が、この時初めて反抗したのだ。
東田の再三の忠告を無視し、香が頑なに桂を退場させなかった理由は第三者にとっては理解しがたい。
富士見軍団に目をつけられた桂が、ハイエナのような執拗さで徹底的に狙い撃ちされ、戦闘不能になるまでボコボコにされたにも関わらず「最後までやらせる」と、断じて桂を引かせない意志を示した香。

最初に東田が忠告した時点ではまだ桂も限界ではなかったし、チームの負けは確定していなかった。
川地も静も健在だし、桂を引っ込めても挽回できるチャンスはまだあったはずである。
にもかかわらず、この時点で香は結果的に勝負を投げてしまうような行動をとっている。
彼女を出し続けることによって、結局、寺堂院は自滅的な逆転負けを喫してしまったのだから。


『ここで退場させたら、桂は二度とバレーができなくなるんじゃないか』
それは桂の意志ではなく、香の気性から出た判断なのである。
香なら徹底的に打ちのめされ、実力差を思い知らされたまま途中でコートから引きずり下ろされるくらいなら、倒れるまで続けさせて欲しい。当然それを望んだからである。

香の常軌を逸したこの判断の裏には香の気性、性質による独善と、妹に対するプライベートな感情があった。それが試合の勝利という、本来の目的に勝ってしまったのだ。
その根底には、八木沢母娘のバレーをという手段を通じて己を理想の人間像にまで高めるという『道』の精神があり、プライドや信念、意地のためには命を投げ出すことさえ厭わない美学があった。
現代の基準からすれば、極端で異常で、全く容認できないことかも知れない。
だが、それが八木沢三姉妹の特殊な家庭における一貫した価値観~美学だったと考えれば納得できるのではないか。

 

もしかしたら静は、こんな母や香の行き方に疑問を感じていたのかもしれない。
母の死に際でわかった、人としての情よりも信念や理想が優先される世界。
そこで生きる事は、時に人の心を捨て鬼になることを要求される。
すでに一線を超え修羅の道を歩んでいる鮎原こずえのような、ひとでなしの冷酷さと非情さを持たなければならないのだ。
桂に試合続行させようとする香に、静は戸惑っていた。
静は桂をベンチに下げたかったのである。
だが有無を言わさぬ姉一言で、静も我に返ってそれに従う。
自分を殺し、姉の言葉に忠実に従う次女の領分に従ったのだ。
母親や姉と違い、常に一歩引いて追いて行く自分は、何も考えず、無邪気に家族に従っているだけの妹の本質を冷静に見抜いていた。
要領よく何でもこなす末っ子に、母も姉も過大な期待をよせる。
だが彼女には母や姉の期待に答えるような器は無かった。
その結果もたらされる悲劇を予想できたのは自分だけだった。
しかしその悔いを認める事は、姉の判断の誤りを認め、姉を糾弾し責任を問うこととなる。次女の領分が本能的にそれを回避し、直接痛めつけたこずえに怒りを向けた。
あの時こずえに向けられた激しい憤怒、暴力による復讐の決意は、実は姉に対する感情を捻じ曲げ迂回させる方便でもあったのだ。

 

だがそれも破綻する時がくる。
病院へ戻った静は、そこで「大人の対応」で自分をたしなめようとする香に猛然と食ってかかった。桂の限界を知っていて無茶な戦いを強いたくせに、
「だれのせいでもない」などと、綺麗事を言って自分を責める香の身勝手さに腹が立った。
そして、ついに直接姉に向かってその怒りが爆発する。
物心ついた頃から姉と母に従い、その役割を真っ当する事に何の疑問ももたなかった彼女が、生まれて初めて姉に激しく反抗したのだった。
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『あんた、鮎原さんのとこへ行ったんやな・・・ 何を言うてきたんや!』

 語気鋭く問い詰める香を、無言でにらみ返す静。(76話)

 

そんな静も、桂の言葉によって再び自らの運命を受け入れる事となった。
こずえを恨んでいないという、桂の思いがけない言葉に静は驚く。
それは誰に言わされているでもない、彼女の本心からの叫びだった。
桂は母や姉たちに乗せられ、傷を負って倒れたかわいそうな妹などではなかったのだ。
これにより静は妹の本音を代弁することで正当化しようとした、自分自身の母や姉に対する不満、そして妹に対する嫉妬を自覚する事となる。
「力尽きたらコートで死ぬ」その美学を完うさせようとしたのは香がコートに出られない自分自身を桂と重ねて同化し、一体化させていた証拠だ。決してエゴではない。それは香が桂に示した最大限の愛の表現でもあった。
そんなふうに香の本心を計った静は桂に激しく嫉妬し、同時に姉を恨んだのだ。

それを自覚できた事によって、静は封印してきた姉や妹に対する本当の想いや願い、それに自分自身の生き方をあらためて見つめなおすのであった。


この1年で家族を襲った二つの悲劇をきっかけに、静は無条件に受け入れることによって目を背けてきた心の奥底にあった不満や疑問と向き合い、それを乗り越えることによって初めて姉の縮小コピーではない、主体性をもった選手へと脱皮できたのであった。

静の反逆は姉の影響力の元から離れ、独立した個性を勝ち取った証であった。
しかし、同時にそれは三位一体でプレイし続けた八木沢三姉妹の終焉も意味していたのである…

 

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静のストイックでスレンダーな外見は、三姉妹の中で最も攻撃的で精悍なイメージを持っていた。
実はかなりの美少女であるにもかかわらず、静のルックスは香のような華やかさも、桂のような個性も感じさせない抑制されたものであった。
発達した四肢、盛り上がった肩と厚い胸板。
見事なカーブを描く脊柱と前方に傾斜した骨盤は強靭な体幹と背筋を伺わせ、物心ついたころからバレーの英才教育を受けた体は戦士のように鍛え抜かれていた。
フィジカル面では恐らくこずえを上回っていたはずだが、姉の卒業、妹の再起不能で一人になってからはさすがにモチベーションも低下したらしく、再会したこずえにもつい弱気な発言を漏らしてしまう。
最後は山本の大ボールスパイクの猛攻にさらされ、奮闘空しくコートに倒れた。
 

 

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第60話で母親(美樹)の回想シーンに出てきた幼少時の香と静。桂がまだハイハイでおむつをしていたから、香4歳、静3歳ぐらいだろうか。

 

 
 
 

祝・40周年!~こずえいろいろ顔

1969年12月7日『アタックNo.1』放送開始。2009年の今日で40周年であった。

 

はは。こずえも今年で54ですか。

 

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それはさておき、同じこずえさんの顔でもよく見ると色々ある。

 

それぞれ好みもありイメージする顔も違うだろうが、ストーリー上では中学2年の秋~高校2年の夏までの成長に合わせてキャラ画の設定も何回か変更されているようだ。
作画担当者それぞれのクセもあるし、同じ作者でも効率的で描きやすい線を見つけるまでの慣れもある。さらにキャラの個性に魂が入るに従って描き方も変わってくるので、その種類はもっと増えるだろう。
大まかに分けて中学時代、高校時代、世界選手権編時代と体型も含め変わっているが、さらに中学編でも初期と中期、後期で微妙に異なっている。
絵に関しては原作とは真逆の方向性の、『少女版・巨人の星』だったアニメは基本的に劇画世界でこずえだけが少女マンガの顔をしていた。

 

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中学編・第1話。
放送初期はキャラ顔のデッサンが安定していないのはよくある事。
微妙な差だが、初期の設定通りの顔は頬がふっくらして眉毛は丸っこく、目のエッジも下がって「タレ目」気味となっている。そのため可憐で少し弱々しい印象を受ける。
『だけど、涙が出ちゃう・・・』という顔にはピッタリだが、本編でここまで甘い顔をしているのは1~7話あたりまでであった。
注意して見ると1話のこずえには輪郭やパーツに微妙な立体感やニュアンスがあり、絵によっては後の完成形と比べると劇画的な写実性もあったりする。
また喜怒哀楽の表情も後の回では見られない豊かなものがあった。
OP、EDのこずえが非常に可愛らしく見えるのはこのためだろう。
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不良チーム結成以前のこずえはまだ奔放な性格が前面に出ていた為、くるくるとよく変わる豊かな表情が見所。
これも13話辺りで完全にデフォルトが固まった感があり、その後世界ジュニア選手権編終了までは体型・顔ともにあまり変化がなかった。

 

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中学編・第12話。
目の小さい劇画顔の吉村さとみと、巨大な目玉の少女マンガ顔のこずえ。この主人公と脇役の落差が、「アタック」の大きな特徴である。
この頃になると使用されるアングル、表情のパターンも絞られ、眼球も中央に固定されたままめったに動かなくなった。
すっかり記号的で平面的な顔になってしまったが、良く解釈すれば安定した完成形の姿であるとも言える。

 

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中学編・第41話。
中学編もジュニアバレーが終わってから急に体型も顔も大人び、この第41話からは高校編バージョンの姿となっている。
冒頭でスピーチをするこずえと早川は、第35話で空港でインタビューを受けた時とあきらかに等身が変わっていた。
この回でこずえの富士見中ユニフォーム姿は見納めとなるが、その姿も夏の大会決勝時の時よりガッチリした体に見える。
そしていかにも少女マンガっぽい「タレ目の正面顔」もジュニア編ラストの40話を最後に登場しなくなった。

 

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高校編になると体の変化も著しい。
原作版のこずえは、高校生になっても少女マンガらしい手足の細いポーズ人形のような姿で描かれていたが、アニメ版では劇画風に成熟を強調したグラマー体型で描かれていた。
高校編の一回目、第43話『女王への挑戦』で登場した神田、須賀や武市ら上級生はハイティーンらしくバストやヒップがよく発達しており、中学編のキャラ達とは一線を画すオーバーな程の特徴が見られる。

 

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針のようにツンと上を向いた鋭角的で豊満なバストは昭和漫画特有の描き方。高校編の登場キャラはおしなべて『ボイン』である。
全く必要性を感じない中沢や猪股ですら「ボインのグラマー」体型であった。しかし逆に貧乳、あるいは極端に巨乳のキャラはおらず、全員ほぼ同じサイズで個人差は皆無と言ってもよい。
つまりこの『ボイン』は成熟した女性体型の記号的表現以外の意味はなく、決して女性美や挑発的なエロスを狙ったものではないという事だ。むしろ凸凹が画一的すぎ、マネキン人形スタイル画の女性のように味気なく感じるだろう。
また、もともと劇画顔の脇役達はともかく、古典的少女マンガ顔のこずえに肉感的なグラマー体型は、少々無理があったかもしれない。
中学時代の細い体型の時には気にならなかったが、絵によってはかなりアンバランスに感じる回が、無きにしもあらずであった。

 

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高校編の途中から髪型のアレンジが変わる。1~53話までの髪型は真ん中分けで幅の広い黄色いリボンだが・・・・

 

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54話以降、リボンは細く、前髪は横に流すスタイルになる。以降、最終回までずっと変わらなかった。

 

きっかけは努の死である。
髪型の変化は努の死から一話ぶんのタイムラグがあるが、そこにはちゃんとした意味があった。
53話は海岸に佇むこずえのシーンで終了するが、翌週54話のタイトル明けで砂浜を走ってくるこずえは、もうこの新しい髪形になっていた。そしてよく見ると53話のラストでは私服姿だったのが、なぜか54話冒頭では制服を着ている。
つまり53話のラストと54話の間に家に戻り着替えた事がわかるが、その時に髪型のチェンジも行われたのだ。
これはショック状態のまま学校にも行けず、ただ悄然と日々を送っていたこずえが、立ち直って再び日常に復帰する意志を固めたという事を意味する。
髪形の変化は『努の死』を乗り越え、再出発するという決意の表れでもあったのだ。
だがこのマイナーチェンジに関しては、本人からの説明も周りからの指摘もなく、いつの間にか変わってしまっているので最後まで気付かなかった人も多かったと思われる。

 

顔のパーツに関しては、基本的には高校編前期は引き続き中学校末期のままであったが、山型で目から離れていた眉毛は回を追う毎に直線型で瞼のすぐ上となり、凛々しさが増している。
顔の輪郭も縦方向に伸び、目のラインも全体に上がった。ちょこんと突き出していただけの鼻も高校編になると鼻筋が通って高くなっている。
また、真木村のように下あごの先端を丸く飛び出させる描き方がこずえにも見られるようになった。
これは顔の骨格を強調して大人びた雰囲気を出すための変化だと思われるが、真木村の場合この点を意識しすぎたのか、時々ゴツクなりすぎることがあった。



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102話のこずえ。いつの間にか八木沢香よりデカくなってる。
世界選手権編では直前の対青葉学園戦の頃に比べてさらに身長が伸びている。 
アニメでは全日本トップクラスの松山や木山と並んでも際立って小さいとは言えない体格だったから、170cm台はあったはずだ。
しかし肩幅も広くなり等身が高くなった大人のこずえに、年少のファンは少し感情移入しづらくなってしまったかもしれない。
この等身のまま最終回を向え、フィナーレの回想シーンで登場する第一話のこずえの顔や体型の幼さに驚愕した人も多かっただろう。
初期のこずえはOP、EDで見慣れてるはずなのに、突然本編に挿入されると改めてその変化に面食らってしまう。

 

特筆すべきは、83話辺りから横長の長方形の目に顎や鼻のエッジが鋭くなった美人顔タイプが出現したことだ。
それまで色気という点で早川や他の美形キャラに負けていたこずえが、この改良で俄然魅力的になった。
OH!プロ村田氏の担当回が特にこの特徴が顕著であった。
100話以降は連続してこの美人顔のこずえが続くが、惜しい事に最終回でまた縦長の丸い目に『への字口』の子供っぽい顔に戻ってしまった。
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第103話のこずえ。2009年7月に亡くなった金田伊功氏がこずえの大ファンだったというのは有名な話だが、特に終盤のシャープな顔が好みだったそうだ。(103話)

 

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問題の最終回のこずえ。目が、口が違う・・・。
そして優勝したのにどこか腑に落ちないような顔をしてる11番。




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顔の事でもうひとつ気になったのが「十字型の星目」だ。
そもそも原作が当時からしても「古い」と感じさせる絵柄で、初期は貸本マンガ的な古臭い表現が続出していた。
「アタック」以外でも白黒時代の古いアニメなどでこの表現はよく登場するので、当時としては普通だったのかも知れない。だが実際違和感があり、シリアスなシーンであってもギャグっぽくなってしまってあまり成功したとは言えなかった。

 

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それに気付いたかどうか、終盤には巨漢のソフィア夫人にハグされ目を白黒させるシーンで、敢てコメディー的な表現として使っていた。

オリジナルサウンドトラック

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思いがけない事もあるもので「アタック」を見続けてン十年、幻の第105~117話と同じようにお目にかかることは無いと諦めていた劇伴音楽のCDが、今回突如発売された。
発売のいきさつはCDの解説にもあるが、要するに奇跡的な発見があったという事だ。生きてりゃいい事あるもんだ。

 

収録曲は全体に1~26話辺りまでと、湯島が登場する83話~最終回までの印象で、ジュニア選手権から高校編中盤までが抜けている感じがした。
残念ながらニューヨーク大都会のテーマやマイティシックスのテーマは入っていない。ズーニーブーの、『白い珊瑚礁』も、当然入ってない。
それでもこれまでこの世に存在しないと言われていた音源のいくつかが、こうして聞く事ができるという幸せは十分噛み締める事ができる。

 

そして今回最も感激したのは『ゴーゴー』が入っていたこと!
中沢のラジオから流れた最初のもの(M22)と伝説のブランコ上でのゴーゴーで使われたもの(M11)が2曲とも収録されており、しかも間奏付きフルサイズの完全バージョン!あの摩訶不思議な曲の全貌が明らかとなる。
またオシャレなモダンジャズ風味のT21、GSサイケ調のT27のような本編では使われなかった曲もあったりと、新たな発見もあった。

 

ではさっそく具体的な内容について。

 

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T1・『アタックNo.1の歌』TVサイズ

 

T2・タイトルコール

 

T3・『わたし、負けるのがきらいですから。』(1話)
煽るベースがドラマの予感。緊張感のあるシリアスムードの曲。
第一話で桂城がこずえをバレー部に誘った時に流れた。

 

T4・『つまりは名門富士見学園のはみ出し女学生ってわけ・・・私たち。』(1話)
こずえが不良グループの面々と初めて顔を合わせた時の曲。
シロフォンとパーカッションのチャカポコしたリズム、リコーダーの困ったようなトボけたような音色が楽しい。
47話で八木沢三姉妹と対面した時、96話でこずえが仲間とはぐれ、ソフィア市内を彷徨うシーンでも長く流れた。

 

T5・『たとえば、こうよ!』(1話)
柏木の指パッチンで始まる「ゴーゴーミュージック」。
次に流れたのは第58話『決定打消えるアタック』。甲徳スケバングループの溜り場である喫茶店。揺れる太股が強烈だった。
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T6・『こうすると東京の音が聞こえると思って』(1話)
砂浜で努と初デートした折に流れた曲。
貝殻を耳に当て東京の音を聞こうとするこずえ。この頃はまだおセンチなフシギちゃんだった。
この1~6までで第一話前半Aパートのシーンが順番通りに再現できる。

 

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T7・これもおなじみ。シビビビ~ンという神経質なエレキオルガンで口論、悪口、陰口など陰湿な雰囲気や険悪なムードの醸成の時によく使われた。
曲は後半でアップテンポになり事態の急変がイメージされる。9話で小沢らの退部届けをひったくって窓から飛び出すシーン『へー、鮎原君てかっぱらいの才能もあるんだな。』も印象的。

 

T8・平和な日常。
フルートとピアノの上品でゆったりした演奏。百貨店の婦人服売り場とか、レディース4の生CMを彷彿とさせる。
こずえママのテーマと名づける。

 

T9・2曲目のゴーゴーソング
教会のオルガン演奏のようなマイナーなイントロ部がタイツ系のGS風。
この曲、子供心に踊るにしてはなんか乗れない変な曲だなあと思ってたが、調子よくドラムがビートを刻み始める中盤から俄然ノリがよくなる。

 

T10・『話は長谷さんと原さんに聞いたわ、バレー部をバカにしたそうね!』(1話)
コートに呼び出したこずえに詰め寄る桂城。
ポン、ポン、ポットン、ポットンというシロフォンに不安なアコーディオンの音色が加わる。
緊迫した場面のミニマルな内面表現に多く使われた。

 

T11・『つぎ、アタックコンビ!』(10話)
ズンズンズンと躍動するベースとストリングスが前進のリズムを刻む、特訓シーンでおなじみの曲。苦しさよりは前向きな闘志を感じさせるもの。
今回のCD、特訓や試合シーンの曲が少なかったのは残念である。

 

T12・桂城達と和解しバレー部に入部したこずえ。期待に胸が膨らむ(3話)。
事件や問題が円満に解決した後などによくかかった曲だ。

 

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T13・『そんなにバレーが憎いならこのボールを裂いてごらんなさい!』(9話)
こずえに迫られた小沢はバレーボールにナイフを付き立てようとするが、その脳裏にボールと共に過ごした思い出がよぎる。
迫り来る危機、たちこめる暗雲、強敵の予感。

 

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T14・『だって努君たら、私の苦しみをこれっぽっちも汲んでくれないで、泉さんの肩ばかり持つんですもの!』(10話)
「アタック№1の歌」のメロディのインスト。寂しく始まって最後は盛り上がる。
泉にヤキモチを焼いたこずえが努の前で拗ねて見せるシーン、バレー部に殴りこみをかけた不良グループをこずえが切々と諭すシーンなどが印象に残る。

 

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T15・『不良チームカッコイイ!』(3話)
桂城バレー部との試合で、『怒涛作戦』により盛り返した不良チームが着々と得点を重ねる。
特訓や順調な試合シーンでよくかかった、『アタック』のBGMを代表する名曲のひとつ。
後半あまり耳にしなくなるが、高校編最後の試合、「風船アタック」を完成させ山本との代表争いに勝った時、猪野熊と山田会長の背後で久々にこの曲が流れた。

 

T16・『知ってるゥ?バレー部のコーチが決まったのよ!』(5話)
「バン・ボ・ボン」のメロディを使ったインスト。
これからピクニックに出発するようなハッピーでウキウキした気分になる。
が、たいていこの後深刻な波紋を巻き起こす事態が待ち受けているのだ。

 

T17・同じく「バン・ボ・ボン」のインストだが、こちらはいくらかスローテンポ。
朗らかで優しいムードの曲だ。
第8話の冒頭、こずえと早川が富士見女子大の合宿に向う『山川村』ゆきのバスのシーン他で流れた。

 

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T18・『くぉずえくぅーーんん!!』
号泣!!努の軽トラが崖から転落!(52話)
この悲壮で劇的なストリングスを聞くと浮かんでくる決定的なシーンは数知れない。
インターハイ決勝で八木沢三姉妹の稲妻攻撃を見切るも、腕の肉離れでレシーブに失敗し敗れた時(61話)。
寺堂院との二度目のインターハイ対決、富士見の集中攻撃でコートに倒れた桂が担架で運ばれるシーンなど(75話)。

 

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T19・「ウルトラQ」風特訓のテーマ。このCDの中で世界ジュニアを彷彿させる数少ない曲のひとつ。
第30話『バレーの鬼』で、こずえが鎖を巻いて特訓を受けた時、そしてチームのメンバーそれぞれが独自の秘密特訓に励むシーンに流れた。

 

T20・トランペットによる情景描写の曲。
体育館の全景や日が改まった朝の風景でよく使われた。

 

T21・
T22・
T21と22はラウンジ感溢れるジャズ、ボサノバ風の曲でかなり異質な印象を受ける。
T22は第38話冒頭のニューヨークのホテルの場面、81話のマイティシックスの練習シーンで聞く事ができるが、T21の使用は確認できない。曲自体は60年代モンド映画のサントラのようなシャレたムード。

 

T23・とつとつと語るような内省的なピアノのメロディ。
終盤、湯島に対する切ない思いを表すシーンなどでよく聞かれるようになる。

 

T24・一言で絶望。
北海道合宿で自虐モード全開時の、「悲劇のヒロイン」のテーマ。

 

T25・ズンズーン、ズンズーンというピアノの低音で始まる深刻ムード最高潮の曲。

 

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T26・嵐の中、こずえの元へ破傷風の血清を届けるマイティシックス。
刻々と迫るタイムリミット、山の診療所で待つ面々の不安は高まる。
マイティシックス編以降よく耳にするようになる、焦りや緊張をイメージする曲である。

 

T27・この曲もT21と同じく本編未使用と思われる。
パンチ溢れるドラムとベース、湯煙エフェクトを効かせたキーボード伴奏がモロGS。サイケでハレンチでゴキゲンなゴーゴーナンバーだ。藤陽子と甲徳軍団のテーマソングにピッタシ。

 

T28・加山雄三的エレキがシビれる湯島のテーマ。
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モグモグ・・・

 

T29・『口笛のあいつ』
ギターとオルガン伴奏に乗せて絶好調の次郎の口笛。

 

T30・世界選手権編で登場した運動会風スポーツ中継マーチ。
入場や試合開始時に使用。

 

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T31・栄光へのステップ。すばらしい勝利。
苦難と絶望を乗り越え、こずえはついに竜巻落としを完成させた。湯島、猪野熊らから祝福を受け決戦の地ブルガリアへと出発する。(95話)
そして最終回。宿敵・ソ連を破って世界一になった時にも感動的に使われた。

 

T32・世界のアタックNo.1へ~希望の明日、輝く未来へといった感じのエンディング。

 

今回新発見されたBGM部分はここまで。以下、

 

T33・鮎原こずえのハミング
T34・予告用BGM
T35・アタック№1(TVサイズ)
T36・アタック№1(TVサイズ・SE入り)
T37・アタック№1(フルコーラス・レコードバージョン)
T38・バン・ボ・ボン(TVサイズ)
T39・バン・ボ・ボン(フルコーラス・レコードバージョン)
T40・アタック№1(カラオケ)
T41・バン・ボ・ボン(カラオケ)
T42・アタック№1(小鳩くるみフルコーラス・レコードバージョン)

 

と続く。
33~42はかつて発売されたCDに収録されていたもの。
『鮎原こずえのハミング』は、もとは湯島の口笛のメロディ。小鳩くるみによるアカペラが4分近く吹き込まれている。
ヘッドホンで聞いているとブレスや口の開閉音がダイレクトに聞こえ、こずえさん本人が間近にいるようでドキドキするよ。
名曲中の名曲、『アタック№1』はカラオケ含め5バージョンも入っている。
当時まだ無名だった大杉久美子はこのレコードをきっかけに主題歌歌手として大ブレイクし「アニソンの女王」と呼ばれるまでになるが、まだ後の歌い方に比べると生真面目にただ一生懸命歌ってる感じがする。
一方、余裕の小鳩くるみ大先生のレコードバージョンは逆に感情入れすぎか。2番の歌詞『ホイッスルが鳴ると 心がはずむわ』のところが、『心がはずむの』に変わってるし。
またこのパートには音質のよくない物もそのまま収録されてしまっていた。

 

ともあれ、このサントラの発売はかつて全話収録のレーザーディスクBOXが出た時以来の喜ばしい事。
発売元にはただ感謝、感謝である。

 

これで40年来の夢であったブランコ上でのゴーゴーがついに出来るゾ!
さあ仲間を集めて八幡様へGOだ!
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